インターネットと僕。-インターネット個人史-(前編)
どうも、もといけあさひ(@DoWaDonuts)です。
先日、僕は自身のインターネットの使い方に革命を起こすことに決めた。
そこでブログの初記事では、ひとつの区切りの記録としてインターネットと自分のこれまでの関係性、その歴史を改めて振り返りたい。
過去を振り返る上で同世代('93前後生まれ)の方たちには「あった、あった」という共感を得てもらえるかもしれない。
上・下の世代の方たちには「若い頃からインターネットがあるとそういう育ち方をするんだ」とか「そんな時代もあったのね」だとか新鮮な驚きがあるかもしれない。
自分たちのそれと比較してどんな感想を抱くのかとても興味があるので、それぞれのインターネットとの歴史を振り返りながら読んでもらえれば嬉しい。
○生誕(1993)
1993年9月16日。京都市内の病院で、僕は泣きながらこの世に生を受けた。
あれほど泣いたのは後にも先にもあれっきりだ。泣きすぎでしばらく目が腫れて痛かった。(そんなこと覚えているはずないだろ)
僕の生まれた時代とインターネット
(1977年5月 APPLEⅡ発表)
(1982年 インターネットの誕生)
1993年9月 生誕
1995年8月 Windows'95発売
1995年7月 amazon 正式サービス開始
1996年1月 Googleの検索エンジンがスタンフォード大学で開発される
1998年 9月 Google創業
(2004年 Facebook創業)
インターネットの歴史についてはどこから遡ればいいのか微妙だが、1982年にTCP/IPが標準化されてインターネットの概念が生まれたのが現実世界におけるビッグバンのようなものかと思う。
そして、物心ついた頃にはいわゆるAGFA(Apple,Google,Facebook,Amazon)+MicroSoftという今日のインターネットの文明で中心となっている巨大国家はもう樹立していた。
それが僕が生まれた時代だ。
ついでといってはなんだがインターネットに人を住まわせるのに一役買った立役者、ネットスケープのモザイクブラウザは僕の生まれた93年に発表されている。
世界をつないだ「商用インターネット」技術16年史|【Tech総研】
○幼児~小学生中学年(1997~2003)
僕とデジタルの出会い
母が長期入院中の妹の世話をするためしばらく母方の祖父母の家に預けられていた。普段は祖父母の営む料理屋の建物の中の居住スペースで過ごしていた。
そこは厨房と隣接しており、店の備品も何かと置かれている。その中にwindows'95のインストールされたNECのデスクトップPCと業務用の大きなプリンターがあった。
その頃の年齢でおもちゃになりそうなものに興味を惹かれないわけがない。
ペイントソフトを使って絵を描き、プリンタで印刷した紙を厨房で働くみんなに喜んで見せていたことを覚えている。
しかし、無駄に用紙を使い込んでしまうので怒られてしまう。それで使用を控えさせられたのか、自粛していたのかは覚えていないが少しPCとの距離が開いた。
ともかくそれが記憶にある最初のデジタル体験だ。
この頃はデスクトップの目立つ位置にあるInternet Explorerを起動はするものの遊びに使わないよう言われていたかで、まだインターネットを目撃することはなかったはず。
あと、預けられる前だったか後だったか、母親が遊んでいたポストペットがとても羨ましかった。
「ネットに繋ぐとお金がかかる」とかでロクに触らせてもらえなかった。俺たちが寝静まっている23時以降、つまりテレホーダイの時間帯に遊んでいたんだろう。
○小学校高学年(2004~2005)
僕とインターネットの馴れ初め
しばらくインターネットどころかPCとも距離を置いていた僕に転機が訪れる。
ある日の授業。みんなの中で流行っているものについて話し合う授業。外遊び、テレビゲームやテレビ番組、漫画、クラスの子の創作キャラクター…。
最初こそ手を挙げて先生に当てられてから発言をしていたみんなも自分たちの関心の深い話題を話しているうち授業ということを忘れ、興奮を抑えきれなかったのか勝手に挙げ始める。
1つ年上の姉がいたこともあって女子の流行についても知識があったので、挙げられるものはどれも知っていた。
あー、○○ね!確かに流行ってるね。などと共感しながら聞いていると、
「モナー!」
天然パーマの眼鏡をかけた男子がその日初めて自分の知らない単語を発した。
みんなも知らないだろうと思いきや、教室は同意の声でかなりの盛り上がりを見せる。
別のある子が教壇に上がり黒板にモナーのイラストを描く。
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< オマエモナー
( )\_____
| | |
(__)_)※間違いなくこんなに上手に書いていない。というか帰って実際のモナーを見たとき「全然ちがうじゃねえか」と思った。
「なんてこった、みんな知っているのに俺だけ知らないぞ!見たこともねえや!」
焦った僕は帰るなりすぐ祖母に許可を得てInternet Explorerを立ち上げた。
クラスのみんなは当時流行っていたFlash動画(おもしろFlash倉庫とかみんなすごく見ていた)経由で知ったんだろうが俺はダイレクトに2ちゃんねるに行き着いてしまう。
活字が大好きで、視界に活字があれば何であれ読んでしまう習性を持っていたので、何だったのかは覚えていないがスレッドを開いて読んでいた。
事件から随分経っていたはずだがネオ麦茶のAAなんかがその頃はまだ盛んに使われていて、ヤバいところ見つけちゃったという恐怖と興奮の入り混じった感情が沸いた。
その時は深入りせず適当なところで離れた、と思う。
次に行き着いたのが真・女神転生〜モナー戦争〜といういわゆるAA小説だった(調べてみたらまだ残っていてなんだか感動した)。
熱心に読んだ。読み終わってとても感動した。
それ以外はみんなと同じようにFlash動画を楽しむのが主なインターネットの楽しみ方だった。
あと、初めてのオカズもFlash動画だった(ディスプレイの前でなく風呂で昼に見たワンピー○のナ○のパイズリFlash動画を思い出しながらだが…)。
5年生の終わりか6年生の途中くらいだかに母の再婚を機に引越し。
リビングにはなぜかWindows Me搭載のデスクトップPCが置かれ、数々の不具合に苦しめられながらも長年使い続けることになる。
○中学1年生~2年生(2006~2007)
僕とインターネットをつなぐデバイス
僕のこの頃のインターネット生活においてはWi-Fi接続ができる携帯ゲーム機(特にPSP)の存在がかなり大きかった。
中学進学を機に携帯電話を持ち始める友達が多い中、僕と同じく携帯を買ってもらえていない友だちとニンテンドーDSのWi-Fi接続機能を使ってポケモンをしながらボイスチャットをするのが楽しかった。
「モンスターハンターポータブル」のブームに合わせてお年玉で買ったPSPはブラウザ機能が搭載されていて自室で寝転びながらネットサーフィンが出来るのは革命的だった。
結局PSPを触った時間の内、ゲームをしていた時間よりも圧倒的にインターネットで遊んでいた時間の方が多いはずだ。
2年生になって携帯電話、というかWILLCOMのPHSを購入してもらった(料金のこともあり、我が家はPHS教だった)。
WILLCOMのPHSに搭載されたOPERAブラウザではそもそもアクセス出来なかったり、3キャリアのアドレスでないとアカウントを登録できないケータイ専用サイトが多く、みんなと同じサービスを受けれず悔しい思いをすることを何度も味合わされることになった。
そういった事情もあり携帯を買ってもらってからもやはり自宅では専らPSPでPC向けサイトを回遊していた。
だから、僕は当時のケータイからアクセス出来たネット世界の文化に馴染みがない。
周囲ではモバゲーやGREEが流行っていたけれど僕はそれを羨ましがりつつ横目に見るしかなかった。
DSでボイスチャットをして遊んでいた友だちも僕と同じ境遇にいた。
彼もまた、ケータイではなくPHSを与えられた者であった。
そして彼はケータイゲームが遊べないフラストレーションを、イケないことだがPSPを改造して好きなゲーム(※但し、個人が作成しているフリーのゲーム)をダウンロードして遊べるようにすることで解消しようとした。
僕もまたその話に乗っかり、協力した。
僕の場合はゲームというより標準のブラウザでは見れないYouTubeの動画を再生できるソフトだったり2ちゃんねるの専用ブラウザが使えるようにすることが主な改造の目的だった。
その他、当時違法アップロードされたファイルを探す際は「掲示板検索」なる検索サービスを周りの同年代はこぞって使っていて、僕も多分に漏れずそのサービスを駆使して音楽をダウンロードして聞いたり、Hな動画を入手したりしていた(これもPSPでやっていた。.3gpが再生出来ず.mp4の動画を探す必要があった)。
ちなみに当時の自分たちの行動を正当化するわけではないが貧しい家庭だったこと、当時はまだ今のように定額配信サービスも充実していなかったこともあり、良くないことだと認識しながらも文化的な好奇心を満たすためにはそうした悪を犯す必要があったのだ。
今は無料〜安価に公式コンテンツを入手できるようになっていて、そうした後ろめたさを感じずに豊かな文化生活を送りやすいので最近の当時の僕くらいの年齢の人が羨ましい。
貧困家庭の親御様方は是非お子様が充実したインターネットライフを送れるよう環境を整備してやっていただきたい。
そんなわけで、たくさんの文化を僕にもたらしてくれたインターネット(とPSP)には本当に感謝をしている。
インターネットと出会い(1)
それからこの頃、小学校から仲の良かった3人の友人グループで一緒にチャットをするのにハマっていた時期があった。個別の部屋(LINEのグループ機能のようなもの)を使って2-3人で会話することもあれば、誰でも入れる雑談部屋に入って見知らぬ他人と絡みつつ会話することもあった。
よく使っていたサイトは「みんなのチャット」;通称みんチャ(2014年9月24日に閉鎖。調べてみてむしろ割りと最近まで残ってたことに驚いた)だ。
ガキだった僕らは、ときどき「荒らし行為」に走ることもあった。
荒らし行為にも色々あるが、僕たちは急にその時同じ雑談部屋にいる他人に滅茶苦茶なイチャモンをつけてカラむのが好きだった。(あとなりきりチャット部屋で途中までノって急にキャラ崩壊させたり。こっちは反応が悪かったので2,3回で飽きたが。)
荒らし行為は手軽に承認を得られるし、分別がついていなければ自分や仲間は楽しめてしまうので本当に危険だ…。
でも、何人か優しくかまってくれる人たちがいて、次第に荒らし行為を辞めて普通に楽しく雑談するようになっていった。
他の2人は飽きてあまり出没しなくなったが、僕はその後もしばらく頻繁に部屋に行き、同じく常連のその優しい人たちとおしゃべりを楽しんだ。
ある日、そのうちの一人(男)と二人でチャットしていると突如メールアドレスが表示された。「ここにメール送ってみて笑」みたいな発言と共に。
俺はその男のアドレスだと思って適当に本文をメールを作成して送ってみた。
すると、それは優しい常連ズのうち、別の女の子のアドレスだった。
それからその子とは直接メールのやり取りをするようになった。
チャットでは話さなかったような個人的な情報も教え合った。
たしかその子は自分より1つ2つほど年上だった。
思春期だし、男と女のドラマを期待していてドキドキしていた。
ある日、相手から顔が見たいと言われた。
失望されたら嫌だなと思いながらも写真を撮って送った。相手の顔も見たかったから恥ずかしかったけど送った。
「可愛い顔してるね」と言ってくれた。嬉しかった。相手の写真も送って欲しいと言った。
すると、「カメラが壊れているから無理」だと断られた。
それに対して僕は直ったら送ってほしいとかプリクラはないの?とか聞いたのだと思うが送られてくることはないまま、しかしメールのやり取りは続いた。
しかし次第に、相手は僕の写真を持っているのに僕は相手の写真を持っていないことがいざとなったとき不利な状況に追い込まれるのではないか(?)とか考えて怖くなってきたので返信をしなくなっていった。
それでもメールが来るので最後には受信拒否に設定した。
そんな、ネットで出会った見知らぬ誰かとの悲しい関係の終わりだった。
○中学3年生(2008)
中学校ではサッカー部に所属していた僕。
地域では強豪の一つとして有名な部だったが、最後の夏はまさかのトーナメント一回戦敗退。
同学年の仲間たちはうなだれ、悔しがり、泣いている子達もいた。
俺はそんな中、下がり眉で…
内心喜んでいた。俺はベンチにも入っていなかったしそもそもずっとモチベーションがなかったのでほぼ丸々夏休みを満喫できることが決まってとても嬉しかった(最低)。
その夏、俺は部活の代わりにひたすらインターネットの世界の回遊に使った。
インターネットと音楽
特に音楽をYouTubeやニコニコ動画で聴き漁るのに熱心だった。
そんな中出会ったPixiesのDebaserを初めて聴いたときの衝撃は今も胸に焼きついている。
窓から差す茹だるような熱い日差しより、俺を脳をボンヤリさせたあの衝撃。
そこからPixiesに影響を受けたNirvanaやNUMBER GIRL等のオルタナティヴ・ロックバンドにハマっていく夏だった。
高校生になったら絶対ロックバンドをやろうと心に決めた。
そして、秋の誕生日には1万円くらいの安いエレキギターセットを買ってもらった。
インターネットと漫画
現在ジャンプで「シューダン!」を執筆されている横田卓馬さんが、この頃"YOKO"名義で運営されていた第四十工房というサイトがあった。
ハイクオリティな漫画が無料で公開されていると当時人気があった。
本格的にプロを目指すため閉鎖されることとなり、携帯から長文のファンメールを送ったら長文のメールが返ってきてとても嬉しかった。
その第四十工房経由で新都社というサイトに出会う。
新都社は架空の出版社であり、漫画(小説)のWEBプラットフォームである(利用無料)。
そこで出会った商業のラインにゼッタイ乗らない・乗せられないような作品の数々に多大な影響を受けた。
--------後編に続く------------